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SHELVED THOUGHTS


津原少年日記
1975年 9月 10月



雑稿

#1.不思議の国からの帰還

#2.墺太利の“笑いの郷”

#3.ウクレレ

#4.抽象的遊戯の小宇宙

#5.幻想音楽

#6.白砂

#7.他は去れ



#1.不思議の国からの帰還


 もともと「小説も書ける楽器」として購入したコンピュータだ。長いあいだ使っていたワープロ(専用機)のキーボードがところどころバカになってしまって、文章に影響が出はじめたこともあり、この高価な買い物に踏みきった。仕事での使用を別にすれば、シーケンス・ソフトで遊ぶのが最大の目的だった。
 通信を始めたのは、電子メールが合作や入稿に便利そうだったからだ。秋葉原で買ってきたモデムの試運転で、とりあえず推理小説のフォーラムを覗いてみた。その夜のうちにRTにはまってしまった。
 最初の発言は「E」だった。首尾よく「リアルタイム会議」に入りこんだはいいが、めまぐるしくスクロールしてゆく話題に、どうしても入りこめない。ひとつ出直そうと脱出ボタンを押したつもりが、「/」をつけ忘れた。
 みなさん親切に正しい脱出法を教えてくださったのだが、そのまま去るのも決まりがわるいので、照れ隠しに愛想をふりまいていたら、夜があけた。「ウラシマ効果」である。

 パソコン通信の「ふつうさ」を強調する人が多い。今や通信は日常的な伝達手段のひとつであり、しょせん道具に過ぎない。問題は使いようである、という論法だ。
 しかし僕にいわせればちっともふつうじゃないぞ、通信は。変な世界だ。酒場で耳にする演劇談義やジャズ談義は現実から乖離していて変なものだが、それと同じ意味で変だ。奇妙だ。
 奇妙な略語や奇妙なルールがやたらとまかり通ってるし、奇妙な人にもよく出会う。いや、ふつうの人に出会うほうが難しい。だけど直接会って話してみると、みんなふつうの人なのだ。ものすごい美人や美少年にもよく出くわす。あくまで通信世界内での美貌だ。
 彼らは通信中だけ演技してるのか? そうは思わない。パソコン通信というフィルターが、利用者たちをデフォルメしているのだと思う。ふつうの人間を「ワンダーランド」の住人に変えてしまう魔力が、パソコン通信にはある。
 基本的な機能は、壁新聞や駅の伝言板と同質なはずだ。なのにいったん関わると、大のおとなが泣いたり怒ったり身を持ちくずしたり、小さくなったり大きくなったりトランプの法廷に引ったてられたり……。
 非日常的な世界だから、すぐに感情が高ぶる。言葉が胸に刺さる。今どき手紙や小説で他人の人生を変えるのは不可能に近いが、通信の世界でなら出来てしまいそうな気がする。
 近未来、簡便さ増して一般に浸透し、日常的に、ふつうになったパソコン通信は、同時にこうした魔力を失ってることだろう。電話が、テレビが、レコードがそうだった。
 今はまだ不完全だから、パソコン通信は面白い。少なくとも僕にとっては、そういう存在だ。黎明期の映画が映画であることに目的をおけたように、アクセス自体が立派に目的として成立している。
 1960年代のロック・フェスティバルは、きっと出かけるだけで楽しかったんだろう。PAが貧弱で演奏はろくに聴こえてなくても。

 いま僕のコンピュータのモデム・ポートはシンセサイザーにつながり、モデムにつなぎ換えられることはほとんどない。初心に返ったセッティングだ。そう戻した理由は、単純にいうと、僕が小説家で、一日の大半をディスプレイの前で過ごしているから、ということになる。
 会社に通ったり子供を育てたりしていれば、日常は否応なく、厳然とやってくる。一方、今の僕の日常はあまり厳然としていないので、あっさりと通信世界の非日常に取って替わられてしまった。通信世界と作品世界を行き来するだけの生活が続いた。あるときふと以前の生活が懐かしくなり、発作的にモデムの電源を抜いた。ピン、と頭のなかのスイッチも落ちた。
 ひとつの典型的な通信体験談だと思う。
 そんな具合だから、通信世界での数々の変な出会いを思いおこしても、果たしてそれが現実だったのか空想だったのか、判然としないのである。

1995.5.8

#1.不思議の国からの帰還

#2.墺太利の“笑いの郷”

#3.ウクレレ

#4.抽象的遊戯の小宇宙

#5.幻想音楽

#6.白砂

#7.他は去れ

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#2.墺太利の“笑いの郷”
text:ジョナサン・キャロル『死者の書』


「――の新しいの読んだ?」
と、これは挨拶の科白です。
 こんな挨拶が成立するためには、もちろんお互いが本好きでなければならないし、そう言い交わすに値する作家が、現役で作品を発表し続けている必要があります。
「そういう作家って、いまは誰だろうね」
 このコラムのお話を受けて以来、本好きの仲間に会うごと、同じ質問を繰り返してきました。取りあげるならぜひ、同時代の、現役の作家にしたいと思ったからです。
 本好きならば誰もが一家言あるテーマのようで、長い議論に発展したり、全員で頭を抱えてみたり……しかし考えてみれば、僕らの挨拶を思いだせばそれが結論なのでした。
「キャロルの新しいの読んだ?」

 ルイス・キャロルではありません。それは『不思議の国のアリス』の作者。残念ながら百年前に亡くなっていて、新作は望めそうもありません。
 冒頭の挨拶を成立させてくれてる僕らのキャロルは、ジョナサン・キャロルです。
 僕らは一九八八年、『死者の書』でその名を知りました。欧米では一九八○年に出版された本で、これが彼のデビュー作です。
 まさに同時代の作家。二十世紀末を生きる僕らに銀色の怪異譚を発信し続ける、古都ウィーン在住、コカコーラ育ちの幻視者。

 派手な宣伝も前評判もなく、『死者の書』はある日ひっそりと書店の文庫コーナーに積まれていたと記憶しています。少なくとも僕は、書店でキャロルの名を知りました。
 なぜその本を買う気になったのか、明確には思いだせないのです。キャロルの一見明朗快活な魔法の効用かもしれないし、彼の名に親しみを感じたからかもしれない。
 いかにも面白い物語を書きそうな名前じゃないですか。ジョナサン・キャロル!
 だたし『死者の書』という邦題に対しては、ちょっとな……というのが当時の正直な感想で、今でもあまり好きではありません。
 表紙に原題が書いてあります。
“THE LAND OF LAUGHS”
『笑いの郷』というこの題は、作中に登場するマーシャル・フランスという作家の作品名でもあります。
  主人公のトムはフランスの研究者。彼の伝記を書くため、恋人サクソニーと連れだって、フランスが愛した町、ゲイレンへと向かいます。
 田舎町ゲイレン。誰もが満足そうに暮らしている、まさに『笑いの郷』。
 逗留中、トムは交通事故を目撃します。いたいけない少年が、目の前でトラックにはね飛ばされて死んだのです。
 住人が彼に訊ねます。
「あの男の子、はねられる前は笑ってました?」
 ――ゲイレンでの生活と恋。仕上がってゆく伝記。
 そして訪れる驚愕の結末。

 寡作な作家でありながら、最初の上陸までに少々時間がかかったおかげで、その後僕らは着々とキャロルの新作を手にし、例の挨拶を交わすことができました。
『月の骨』『炎の眠り』『空に浮かぶ子供』……第一作の邦題が不評だったのか、いずれも原題の直訳です。
 この三作は共通の世界観を持ち、登場人物も自由に行き来しています。独立した作品でありながら、併せて読めば面白さ倍増、という僕好みの構造。
 次に出た『我らが影の声』は、じつはキャロルの二番めの長篇。悪夢そのままの本当に恐ろしい小説で、もし最初に読んだのがこれだったとしても、僕は確実にキャロル・フリークになってたことでしょう。
 現在のところの最新作は『犬博物館の外で』。タイトルでもうノックアウトされてしまいました。『月の骨』からの流れです。シリーズといいながら、毎回、読者の頭のなかの図式を根底から覆してしまうのが凄い。凄い作家です。
 どの作品にも、犬(とりわけブルテリア)が重要な役割を担って登場します。僕も偶然、少女小説で同じことをやっていたのでびっくりしました。嬉しくなって、自著に『死者の書』を登場させたほど。
「この本、実在するのかも」と書店を巡って、発見し、読んでくれた読者もあったようです。こういう仕掛けは、本を書く楽しみのひとつです。

 憧れが高じて、キャロル探しにオーストリアまで出向いたことがあります。
 八方手を尽くし、アメリカの版元にまで問い合わせたのですが、自分からしか連絡をとらない人だそうで現在の所在は不明。判明した最後の所在地は、ウィーン郊外の田舎町でした。そこに到着した早々、目の前で子供がトラックに……。
 住人が僕に訊ねました。
「あの子、笑ってました?」

96.12.19

#1.不思議の国からの帰還

#2.墺太利の“笑いの郷”

#3.ウクレレ

#4.抽象的遊戯の小宇宙

#5.幻想音楽

#6.白砂

#7.他は去れ

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#3.ウクレレ
 


『妖都』という怪奇小説を上梓したら、友人のひとりが「作品がこうも恐ろしいうえ近影が“黒ずくめに黒眼鏡”であったりした日には、必ずや読者に人格を疑われる。撮影には“アロハシャツにウクレレ”か“ルバシカに口髭”で臨むように」と親切な手紙をくれた。まさにその“黒ずくめに黒眼鏡”で取材を受けた直後だったので顔色を失った。
 今はアロハの季節ではないしルバシカがどこに売っているかも知らないが、ウクレレならば手に入る。他の楽器ではまずい。ギターやアコーディオンではなにごとかと思われてしまうし、僕はマンドリンも弾けなくはないのだが、あれは弦が八本もあるうえ音色があんがい攻撃的だから相手を萎縮させる。ウクレレならば「肌身離さず持ち歩いているのだな」とか「海が好きなのね」と適当に納得してもらえるに違いない。
 僕が生涯これ一枚でいいかもと思うほどに大好きな、ポール&リンダ・マッカートニーの『ラム』に入っている「ラム・オン」という曲の伴奏が、そういえばウクレレだ。短くて簡単な曲なのでよくギターを弾きつつ歌う。ギターではなんとなく感じが出ない。ウクレレ独特の、音程のあまい、情けないような音色の必要性はかねがね感じていた。取材にも「ラム・オン」にもウクレレだ、ウクレレ。
 買った。ナヘナヘ(Nahenahe)というマウイ製の楽器だ。ブランド名を見た瞬間に気持ちは固まっていたが、いちおう店じゅうのウクレレを弾きたおして価格のわりに上質な楽器であることを確認してから買った。ナヘナヘとは、美しい音、という意味なのだそうだ。ウクレレをぽろろんと鳴らし「ナヘナヘ?」「ナヘナヘ」と甘い会話を交わす恋人たちの姿を想像すると、とても幸せな気分になる。ハワイ語は現在でも英語に織りまぜて日常的に使われるから、あながち夢想世界の話ではない。
 今も膝の上にはウクレレ。「ラム・オン」にはちょっと飽きてきたのでザ・ヴェンチャーズの曲など爪弾いている。

97.12.17

#1.不思議の国からの帰還

#2.墺太利の“笑いの郷”

#3.ウクレレ

#4.抽象的遊戯の小宇宙

#5.幻想音楽

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#4.抽象的遊戯の小宇宙

 遊戯というのは、そのようすが抽象的であるほど神秘のヴェールを重ねて纏うものであって、子供のころに見た、碁盤に向かう父親の姿の不思議さといったらなかった。僕が夢にみるほどのめりこんだゲームというと、四つ玉のビリヤードかNEC製パソコン版の初期ウィザードリィくらいのものだが、どちらも見た目はきわめて抽象的だ。当時のウィザードリィでディスプレイに表示されるのは、プレイヤーが地下通廊にいることを示す数本の白線だけだった。途中さまざまな怪物に遭遇して戦わねばならないのだが、それらもただGARGOYLEだのGREATER DEMONだのと文字で表記されるだけなのだ。これが恐ろしい。連中が血も涙もない攻撃(これも数値の変化からのみ読みとるのだが)を仕掛けてくるたび、そのおぞましき眼つきや、巨大な爪を備えた節くれだった手足を想像してじっさい心臓が高鳴り、気持ちを落ちつかせるため煙草を吸ったり部屋じゅうを歩きまわったりしていた。端目にはいかにも奇妙な光景だったに違いない。
 理想をいえば、それでいてルールもシムプルであるに越したことはない。が、あまりにシムプルだと、千日手、碁でいうところの劫や、双方手詰まりによる引分けが発しやすい。小学生のころ、授業中によくマルバツと称する、井桁を書きその枡を○と×とで取りあう三目並べをやった。これなど慣れてくると互いに敵に並べさせないコツをつかんでしまうから、引分け以外ありえなくなる。似たゲームに「船長の愛人」なる船上で好まれた立体四目並べがあるが、これも慣れてくると敵の失策を待つ以外に勝つ術がなくなる。
 とまれ、冴えない授業や揺れる船上といった密室的状況が、人の脳髄にゲームの小宇宙の誕生を促すのは確かなようだ。十八世紀フランスの牢獄では、狐と鵞鳥のゲームという独り遊びの名作が生まれた。それを洗練させたものが、Solitaire(独り遊び)といって今も商品として流通している。盤にはさまざまな準貴石が鏤めてある。それぞれの石は隣接する石を跳び越えられる。越えられた石は除去される。最後に石一個が盤の中央に残れば成功。優雅な時間つぶしだ。
 優雅といえば、一度はやってみたい遊戯が、手紙によるチェス。自らの手を手紙で伝え、受けとったほうはそれを見て手元の敵駒を進め、抗する手を考えてまた手紙に書くというもの。それほどの好敵手を人生において得られた気分というのは、いったいいかなるものであろうか。むろんそれ以前にチェスを熟知しなければどうにもならないのだけど。

 
98.1.8

#1.不思議の国からの帰還

#2.墺太利の“笑いの郷”

#3.ウクレレ

#4.抽象的遊戯の小宇宙

#5.幻想音楽

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#5.幻想音楽 ――私の愛聴盤
disc:ジャコ・パストリアス『ワード・オブ・マウス』


 こと音楽に関しては楽園幻想を求めてしまう傾向が強い。必ずしも南国的なものだとか牧歌的なものというのではなく、作曲者や演奏者の仮想自叙伝的な閉鎖空間を好むということだ。仮想リヴァプールを巧みに演出していた中期ビートルズ音楽のような、と申しあげれば伝わりやすいだろうか。
 パストリアスは、電気ベースというまだ赤ん坊のような楽器の可能性をピアノなみに押し拡げてしまった天才だが、このアルバムの制作時すでに深刻な薬物中毒に陥っていた。R&B、カリプソ、レゲエ、クラシック、ハードロック……さまざまな様式を追想させては逃げていくパストリアス音楽を、ジャズ畑のとんでもなく豪華な顔ぶれが完璧に支えている。僕が十八歳になる前夜、奇跡的に郷里を訪れたこのビッグバンドの思い出にちなんでこれを選んだ。その後パストリアスはライヴハウスの用心棒に殴られて三十代で死んだ。この音楽はもうない。
98.7.?

#1.不思議の国からの帰還

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#3.ウクレレ

#4.抽象的遊戯の小宇宙

#5.幻想音楽

#6.白砂

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#6.白砂 ――友人同士の結婚式に書き送った詩
 
あつい 海岸の白砂を 皆で
踏みつけにして遊んでいたら
睫毛のながい
アルミニウム の へこんだ 木馬がやってきて
君等をさらって いくようだ
木馬の 背の
温んだ 赤い アルミのうえで
なにか と喧嘩でもおきるかと
ひやひや僕等は たばこの煙を
蒸気機関ばりに 吐きだしては
目をほそめると 失語症の島影が揺らいでいるよ

おおい!

僕等の 虫喰った辞書は
いずれ ひとつのながい
詩篇を成します 残りは
はらはら
砂に なります
98.8.28

#1.不思議の国からの帰還

#2.墺太利の“笑いの郷”

#3.ウクレレ

#4.抽象的遊戯の小宇宙

#5.幻想音楽

#6.白砂

#7.他は去れ

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#7.他は去れ
 


 酒にまつわる気楽な散文というのが小説すばるからの依頼だが、なんの誰が気楽になど書いてやるものか。今日も旨い酒をひとつ見つけてきたところなのだ。福島は仁井田本家という酒造所の鳳金寶(おおとりきんぽう)・自然酒なるそう高くもない酒だが、封を開けたときの香りがまず凄い。くらり、十代の頃のおれだったらそれだけで確実に桃源に達したであろうほどの芳醇である。飲んでいるうちにそれがハブ酒などに特徴的な、いわば野性の動物臭に変ずる。そうか、おれがハブの臓物のにおいだとばかり思っていたこの香はむしろ植物臭であったのか。自然のままの琥珀色、と罎を被っていた黒い袋に印刷されている。おれは白熱灯愛好者なのでその光の下ではよくわからん。明日の昼にでもまた眺めてみたいところだが、このあいだ昼酒を我孫子さんに叱られたばかりなのだ。我孫子さんというのは小説家の我孫子武丸である。会したのは夜だったが、津原さん、きょう昼間から飲んでたでしょう、と即座に見抜かれてしまった。昼酒はやめると云ったでしょう、と説教口調であった。おれの躯を心配してくれている。そうした知己に恵まれたおれの人生は素晴しい。同じくおれに説教を垂れる小説家に図子慧という人がいて、彼女の実家は愛媛で酒屋を営んでいた。酒屋というのはその常連と、なかなか長きに渡っては交流を保てないのだそうだ。店のほうが保ちたくとも、客のほうが飲酒かなわぬ状態に陥るか、あるいは死ぬ。なんでいったい電話で姿は見えぬはずなのに、おれが飲酒中であることがわかるのかと思って訊ねたら、氷とグラスがぶつかる音が聞えたと仰る。電話越しにもよく届くらしい。でもね図子さん、おれが必ずしも氷入りの酒を飲んでいるとは限りませんよ、はは。早死にしたいわけではない。苦しくもないくせして無意味に死にたい死にたいと抜かすやつが世間にはいるけれど、低能だと思うね。じゃあ死ね、きょう死ね、と思う。おれはタフに生きたいのだよ。互いが死んでも来世で会いたいと思うほどおれがその画業と人とを愛してやまぬ金子さんは、まさに浴びるほどの酒を飲み、くるくるくると素敵に踊りまくった挙句、翌日にはなーんにも憶えていない。そんなふうにおれは生き延びたい。洋画家の金子國義である。おれの亡父とさして変わらぬ生年であられる。きょう見つけた酒のラベルの端には、長命之一滴、とある。酒は栄養だ。そう認識できる者にのみ、愉しむ資格がある。他は去れ。

1999.5.15

#1.不思議の国からの帰還

#2.墺太利の“笑いの郷”

#3.ウクレレ

#4.抽象的遊戯の小宇宙

#5.幻想音楽

#6.白砂

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