帯

都市伝説、幻獣、うつむきがちな青春群像、
アンファン・テリブル、表現の苦悩と歓喜、死。
津原泰水の集大成的ホラー大作

少年トレチア
作 津原泰水
装画 七戸優 装訂 松木美紀
本体価格2000円
ISBN4-06-210809-7
講談社 四六判上製
2002年1月末日発売

本文冒頭
† おもにインターネット通販利用者に対し「立ち読み」の利便をはかる試みとして、津原泰水の新作『少年トレチア』冒頭、四百字詰め原稿用紙にして54枚ぶんのテキストファイルを、ここに公開します。
† 著者自身の執筆ファイルからの転載です。書籍とは細部が食い違っています。
† 本頁に対する、いかなるサイトからのリンクも歓迎します。URLは、
http://www.cyborg.ne.jp/~tsuhara/aquapolis/booknews.html
です。ただし本頁は予告なく更新されます。ご了承ください。
† 出典さえ明記してくだされば、いかなるメディアへの無断転載も禁じません。
† 著作権は津原泰水に帰属します。

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  書き下ろし怪奇幻想長篇  少年トレチア  津原泰水


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日本放送の番組《ザ・ワイド》のための取材ビデオテープから

場面――一九八八年九月十五日、東京都緋沼市新興衛星住宅団地(通称緋沼サテライト)F区の住人長嶋圭子が、自宅の駐車場で、前夜隣家で発生した殺人事件についての質問に答えている。駐車場を覆ったポリカーボネイト材の屋根を打つ雨音が、延延と背景に響いている。
 長嶋圭子は五十代くらいの主婦。テレビによる取材を予期していたのか、卵色のポロシャツに地味な縦縞模様のエプロン掛けという服装だが、薄化粧をし、頸にはヴェネチア硝子かなにかの球を連ねたネックレスを巻いている。言葉にはすこし栃木か茨城あたりの訛りがある。質問者は《ザ・ワイド》のレポーター野辺山さくら。しかしかの女の姿は画面には一度も入ってこない。

長嶋圭子(長) 期日だ、と叫んでたんだと思うのよ。
野辺山さくら(野) 奇術?
長 期日、期日。
野 期日だ、ですか。
長 期日までにお支払いくださいとかの。
野 期間の期に、日にちの、期日ですね。
長 だと思うんだけど。
野 そうはっきりと耳にされたわけですね。
長 がたんってね、どたばたって大きな音がしたもんだから、あたし、あらまた夫婦喧嘩かしらって思って。
野 喧嘩は、よくなさってたようすでしたか。
長 普通のご夫婦ですよ。普通の、仲のいい、よくふたりで買いものとか、ルナパークで見かけて挨拶してましたよ。
野 喧嘩の回数は、多いかなという感じでしたか。
長 さあ。でも若いあいだって、週に一度や二度はするもんでしょう?
野 はや。(肯定と否定が混乱したものと思われる)
長 かっとなっちゃったら、そのへんにある軽いもの投げつけたりしてね、怪我させる気はなくっても。
野 そういう、物を投げあうような喧嘩を?
長(頭を振って) おうちのなかのことは、あたしは。
野 期日だという声を聞かれたのは、その大きな音がした後なんですね?
長 だから、あらあと思ってあたし、窓を開けたら、カーテン越しに人が動きまわってるのが見えて、お隣さんどうしちゃったのかしらと思ってちょっと見ていたら、そういう声がして。
野 ゆうべも雨でしたよね。
長 降ってましたよ。
野 それでもはっきりと聞きとれたわけですね、期日だ、と。
長 奇術だ、にあたしもはじめは聞えたんですけどね、それはでも喧嘩のときの文句にしては変でしょう。
野 ええ、変です。
長 怒鳴る? 奇術だあ、なんて怒鳴るかしらね。
野 ふか。(笑い声)
長 あたし、それはいくらなんでもおかしいんじゃないかと思いましてね、今朝しばらく考えてて、あ、お金のことで、借金のことで喧嘩してたんだわって。だったら辻褄が合うでしょう。期日だ、と怒鳴って怒りだす人がいても不自然じゃないわよね。
野 じゃあ、だれかお客さんがみえていたような感じで。
長 それはわかりませんけど。
野 だれの声でしたか、期日だ、というのは。
長 ご主人じゃ。(頭を振る)
野 奥さん?
長(沈黙を置いて) 違うでしょう?
野 女性の声でしたか。
長 違いますよ。でもこどもみたいな、ちょっと高い感じの。男の子の声。
野 ほかにはなにか、声は聞えましたか。
長 それでしばらくすると、奥さんのきゃあっていう悲鳴が聞えて、あたしあわてて一一〇番したの。主人が見にいこうとしたんですけど、怖いからって引きとめて。
野 悲鳴とその前の声は。
長 ぜんぜん違う声。別の人。
野 逃げていく人影とかご覧になりませんでしたか。
長 いいえ。あ。
野(勢いこんで) ご覧になりました?
長 でも見間違いかも。
野 とにかくお話しいただけますか。
長(背後をふり返って) いえ奥さんの悲鳴が聞えるちょっと前にね、あの裏口のほうに、ちらっと白い感じの影が見えたような気がしたのね。
野 あちらですね。
長 でも車が通ったときも、そんな感じにちらっと見えますでしょう。
野 車の音は聞えましたか。
長 まあ雨が降ってたし。
野 車の音はしなかったんですね?
長(首を傾げて) それよりあなた、ご主人てけっきょくなんで亡くなったの?
野 絞殺だそうですよ。
長 あらまあ、絞殺って頸を?
野 (聴取不能)
長 まあ。

附記――《ザ・ワイド》の枠内でオンエアされたのは、長嶋圭子が「期日だ」という声および白い影に言及している部分を編集した数秒のみ。これはその後、他の複数の番組に流用された。なお話題となっている殺人事件は現在も未解決で、重要参考人に認定された被害者の妻・藤原早知子は依然行方不明のままである。


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緋沼市中央公園管理所の管理日報より

【日付】(一九八八年)10月7日木曜日
【記録者】小出芳彦(印鑑)
(四項目省略)
【特記事項】石丸警備保障より報告書あり。以下その概略。
 昨深夜2時頃、鳥類園内に6〜7人の児童を発見。1人を逮捕。
 白鳥舎の金網に切断箇所あり。6羽の白鳥のうち、1羽重傷、1羽死亡、1羽消失。
 篠塚獣医師に連絡後、逮捕した児童を詰所にて尋問。
 児童は小学校3〜4年生の男子。服装は緑と青の横縞のラグビーシャツ(ラルフ・ローレン)、デニムの半ズボン、ライン入り運動靴、靴下なし。住所氏名黙秘。主犯ではないことを主張。
 対話要約
・金網を切ったか/切っていない
・切るのを手伝ったか/手伝っていない
・切断されるところを見ていたか/見ていた
・誰が切っていたか/知らない
・誰が白鳥を殺傷したのか/知らない
・見ていたのではないのか/見ていた
・何人で殺していたか/1人
・その児童の名前/知らない
・名前も知らない子と遊んでいたのか/うなずく
・いつも遊んでいるのか/黙秘
・金網を切断したのもその児童か/うなずく
・緋沼サテライト内の子供か/首をふる
・ではどこの子供か/トレチア
・それはどこか/知らない
 篠塚獣医師来園。重傷の1羽を診察。
 児童は診察中、隙を見て逃亡。追跡するもサテライトB内で見失う。
 白鳥を殺傷した凶器は小型のナイフ。未明、重傷の1羽は出血多量で死亡。以上。
 白鳥舎の金網補修。交換許可を協会本部に申請。

附記――緋沼市中央公園は一九八四年、三十六棟の高層マンション(緋沼サテライトA、B、C)、約二千六百戸の建売住宅(緋沼サテライトD、E、F)、その約半分の戸数を想定した注文住宅建築区域(緋沼サテライトG、I)、ショッピングモール「ルナパーク」「ムーンレット」などとともに、緋沼市新興衛星住宅計画の基軸のひとつとして造成された、約二十万平米の公園である。その敷地面積の三割を「いこいの森」と名付けられた雑木林、一割をボート場附きの人工池「はちまん池」が占め、鳥類園、児童図書館、野外ステージといった文化施設、テニスコート、プール、アスレチッククラブといったスポーツ施設をも擁している。
 それら一切が都の外郭団体、財団法人東京都公園協会の管理下にある。石丸警備保障は同協会が園内各施設の夜間警備を委託している、ふたつの警備会社のうちのひとつ。

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緋沼サテライト内の幼稚園「清風園」保管のカセットテープから

場面――一九九二年十二月。清風園ふじ組の教室内で、保母(当時)の浮田裕美が園児のひとり楳原あかねに、かの女が教室の金魚鉢に投石して破損した件で質疑している。他の園児たちの声が盛んに被さっており、聴取不可能な箇所が多い。
 当時同園では行動上問題が感じられた園児との対話を、父兄との懇談の際の資料として録音しておくことが推奨されていた。しかし実際に懇談に用いたところ父兄にきわめて不評であったため、このテープを最後とし、その後は一本も録音されていない。

浮田裕美(浮) 金魚、嫌い? 可愛いでしょう。
楳原あかね(楳) かわいい。
浮 じゃあ(聴取不能)するの?
楳 ええとね、あのね、きんぎょばちきらいなの。
浮 なぜ嫌いなの?
楳 ええとね、あの(聴取不能)でるから。
浮 (聴取不能)
楳 ゆがんでるから。
浮 (聴取不能)も死んじゃったよ。
楳 はねてた。
浮 でもそのあとで死んじゃったの。先生、埋めたよ。
楳 どこ?
浮 お庭に。
楳 どこ?
浮 花壇に。
楳 (聴取不能)
浮 あとで見る?
楳 ええとね、あかねちゃんじゃないよ。
浮 嘘。みんな見たって云ってるよ。あかねちゃんが石投げたんでしょう?
楳 なげたけど、ほかのひとがわったんだよ。
浮 本当? じゃあだれが割ったの。
楳 しらない。
浮 あかねちゃんが割ったんでしょう?
楳 ちがうの。
浮 割った人、見た?
楳 ええとね、しろいひと。
浮 教室のお友達?
楳 (無言)
浮 じゃあ教室にだれか入ってきたの?
楳 (無言)
浮 どんな人? おにいさん? おねえさん?
楳 おにいさん。
浮 知ってる人?
楳 (無言)
浮 どこの人?
楳 ええとね、あのね、トレチア。
浮 (聴取不能)
楳 トレチア。
浮 その人が石を投げて割ったの?
楳 (無言)
浮 いくつぐらいの人? あかねちゃんの(聴取不能)らいの人?
楳 わかんない。
浮 どんな人?
楳 ぼうしかぶってるんだよ。
浮 どんな帽子?
楳 しろとくろ。
浮 縞みたいの?
楳 うえがしろいの。
浮 その人、なんで金魚鉢を割ったりしたのかな。
楳 きじゅつだから。
浮 奇術で割ったの?
楳 いしなげたの。
浮 投げたのはあかねちゃんでしょう?
楳 ええとね、あのね、トレチアがやった。
浮 あかねちゃんは石を投げなかったの?
楳 (聴取不能)たらね、われた。

附記――清風園は緋沼市がまだ農業と洋食器の製造をその主力産業としていた一九五〇年代、浄土真宗専修寺の敷地内にその附属施設として開園。一九八四年、緋沼市新興衛星住宅計画に沿って緋沼サテライト内に規模を拡大して移転した。同様にしてサテライト内に移転した保育施設は他に三園ある。うち一園は一九九二年に閉園。

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漫画誌「サスペリア」一九九三年新年号
読者投稿頁「読者の怖〜いお話」より

のいとこが通っている小学校には変な噂があるそうです。校庭の隅に古い木造のトイレがあるのですが、そこの「大」のほうに入っていると、必ずだれかがドアの上から覗きこむんだそうです。そして「奇術だ」と囁きかけてくるのです。意味はよくわかりません。はっと上を見上げても、すばやく引っ込んでしまうので姿を見ることはできません。外に出て追いかけようとしても、誰もいません。建物のすぐ外にいた子に「だれか逃げだしてこなかった?」と聞いても、「だれも見なかった」と言うそうです。
 でも大急ぎで見上げたら見えたという子もいて、それは小学生で、その学校の昔の制帽を被っていたそうです。今はその小学校は服装は自由ですが、30年くらい前には制服があったのです。 〔埼玉県/T・Y〕
★じゃあもしかして、昔そのトイレで亡くなった……!?

同誌一九九三年四月号
同コーナーより

年号のトイレを覗く少年の話を弟にしたら、弟の小学校(私も通いました)でも最近よく似た噂が流れて、話題になったと知ってびっくり。同じように昔の制服を着ているんですけど、ただその少年はトイレとか覗くんじゃなくて、動物を殺すんです。学校で飼っていたアヒルとウサギ、それによく生徒が餌をやっていたノラ猫も犠牲になったんだそうです。朝教室に行くと、教卓の上にその屍骸が……。
 勇気のある生徒たちが残ったアヒルを守るために、夜、鳥小屋を見張っていたら、まさにその晩、少年は現れました。懐中電灯で照らしたら、「キジツだ」と嬉しそうに叫んで、ものすごいスピードで逃げてしまったそうです。でもその話を先生にしたら、「夜の学校に忍び込んだりしてはいけない」と注意されてしまったとか。 〔東京都/K・K〕
★可愛い動物を殺すなんて許せないネ。

同誌一九九三年六月号
同コーナーより

れまで一月号と、四月号の、このコーナーに出てきた制服と、制帽の少年は、私の学校ではなぜか、トレチアと呼ばれています。人を殺すこともあるというので、みんな、とても怖がっています。 〔東京都/U・Y〕
★おいおい、そんな物騒な。ただの噂だと思うけど。

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ケーブルテレビ緋沼CATVの番組《カフェ・ド・サテライト》のオープニングコーナー「はてサテライト」に視聴者から寄せられたファクス その不採用ファイルから

98/4/9

番組、毎日楽しみに拝見しています。
 30代の主婦です。

はてサテライトへの質問というか、
 本当なのかどうか、番組で調べていただきたいことがあります。
あるボランティア活動をやっている友人が、
 このあいだ、インターネットのどこかで、
  人口にたいする行方不明者の比率が、日本一高い町は、
   緋沼サテライトだという、文章を見かけたと言うんです。
なんだかゾワゾワするような話で、私はとても気になってしまい、
 それを見せてほしいと言って、彼女のお宅にまで行って、
  もう一度、インターネットの中を探してもらったんですが、
   文章が削除されてしまったのか、見つけだすことができませんでした。

そこでお願いです。
 番組で、その真偽のほどを確かめてもらえないでしょうか。
友人が見た情報が本当だとしたら、夜、出歩くのも、
 子どもを、外に遊びに行かせるのもなんとなく、こわいような気がします。

              サテライトF区 甘い物好きのS子より

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  第一位相 風聞

    一

 川魚の背のような輝きが、低くねっとりと夜を覆っている。拝島竜介はサテライトAの入口でドラッグスターを停めた。車止めこそないものの、その先の遊歩道は故意に路面に凹凸を設けてあり、自動車や単車で進入すると激しい上下振動に見舞われる仕掛けだ。タンデムシートから三池礼於奈がするとすべり降り、被っていたヘルメットを投げつけてきて、
「じゃね」
 後ずさりながら手を振った。
「素気ねえな」
 すると、かの女は左の手首を指で叩いて、
「おとうさんに怒られちゃう」
 竜介はドラッグスターのエンジンを停め、受けとったヘルメットをミラーに掛け、後ろに蹴りあげた左足の爪先でサイドスタンドを下ろした。
 ジェット型のヘルメットから頭を引き抜き、黄色い短髪のつぶれを掌で直しながら、遠ざかろうとするDKNYのジャケットの光沢を追った。
「9号棟まで送る」
「くっつかないでね。ここって必ずだれかが見てるんだから」
「じゃあ裏側を通ろう」
「あ、キスしようと思ってる」
「思ってねえよ」
「じゃあやだ」
「思った。いま思った」
 礼於奈はほくそ笑んだ。
 サテライトAの十二棟のうち、サテライトEとの境界を成す四棟は、背後に中央公園の分園ともいえる細長い緑地帯を置いている。竜介とその家族がこの計画都市に移ってきた十五年前は、砂漠の実験農場のように貧相な緑地だったが、成長の早い樹木を選んで植えてあったのだろう、今ではこぢんまりとした果樹園程度には風情がある。闇もある。
 ふたりは12号棟の手前のスロープを上った。緑地の端に、この十五年間にしぜんと生じた小径がある。棟内の各戸の玄関側だが、エントランスの構造からいえば、こちらが棟の裏側にあたる。
「箱根さあ、どうする?」
 ドゥニームのヴィンテージレプリカ・ジーンズのポケットに、ヘルメットの顎紐を通した左手の先を突っこみ、右手ではクールマイルドの箱を振り振り、半歩前を行く礼於奈に云う。
「来月に入ったら、祖父さんが居座っちゃうんだってさ、神経痛の治療で」
 礼於奈は歩きながらふり返り、
「拝島の?」
「楳原のだよ」
 竜介はターボライターを灯した。煙を吐いた。
「だってあたし、その人知らないもん」
「だからこんど紹介するって。G区に住んでんだ。なんで知らないかなあ、小学校んときからけっこう目立ってたけどなあ」
「拝島、緋沼第三?」
「あん、サテライトってだいたいそうだろ?」
「あたし、云わなかったっけ。第一」
「そうなのか。え、そういうのあるんだ」
「あたし、ここに移ってきたの六年だったから、卒業まで間がないとそういうのあるみたい。それで中学から藤村でしょ」
「あ、おれたちとぜんぜん被ってないんだ」
「ずっと知ってたら、恥ずかしくてとても付きあえないよ」
「楳原の女、第三だったよ。中学からもおんなじ青学」
「じゃあ小学校から大学まで? 近親相姦じゃん」
「そういう表現する。まあ姉弟っぽい感じじゃあるな」
「楳原くんてかっこいい?」
「なんだよそれ。女にきゃあきゃあ騒がれるようなタイプじゃないさ。でも顔はまあまあかな」
「かっこいいんだ。紹介しちゃっていいの?」
 た、と竜介は口のなかで舌を弾き、たばこを足許に投げた。
「冗談だって」
 礼於奈は立ちどまり、かれと向きあい、その唇の脇にすばやく口づけた。竜介の両手が、相手の躯を不器用に追い求め、ふたつの二の腕をつかまえる。やん、とかの女が声をあげる。
 竜介は構わず、引き寄せた。肋骨のあたりに触れる、矯正下着で固く尖った乳房の感触を楽しみながら、緑地の暗がりへと引きこんでいく。レッドウィングの踵が異物を察知したかと思うや、背中が赤松のいびつな幹に触れる。かれは背中をくねらせ、体重を預けられそうな位置を探した。
「人に見られる」
 礼於奈が前のめりの苦しげな姿勢でささやく。湿った息が竜介の喉仏をくすぐった。かれは右手を女の脇腹へと滑らせた。
「見てるもんかよ。だれが見てるもんか」
 尾骨のあたりを松の表皮に引っかけて、左の腕で礼於奈の頭を抱えた。白っぽく化粧された眼の下の、小麦色の頬に唇を寄せた。張子の獣のように顎を揺らし、パールピンクに塗りたくられた唇を懸命に追いかける。
「見てる。きっと見てる」
「見えるもんか」
 唇を塞いだ。一方で右手を、短いスカートの裾に滑らせた。小指の付け根の膨らみが、太腿の、弱弱しい皮膚と産毛の複雑な感触を得た。やだもう、と礼於奈が竜介の舌を吸いあげながら、咽だけで発する。竜介の指先が腿の内側の、より脆弱な皮膚へと侵攻する。
 母乳を求める犢のように意地汚く自分の舌を吸い続ける礼於奈を、竜介は頭のどこかで嘲笑している。この脂くさい唾液のどこが旨い? 自分の家に向かって尻を突きだした惨めな姿勢ででも懸命に味わいたいほどの、いったいどんな麻薬物質がおれの体内を満たしているのだろう。そう思うや、きっぱりと遠慮が失せる。食材を扱うような残酷な手つきでかれは、綿の下着ごしに、礼於奈の性器を揉みしだいた。熟れろ。潰れて、汁を沁みださせて、ぐにゃぐにゃに変形しろ、礼於奈。
 ふと礼於奈が、休息するように竜介の舌を解放する。
「指は入れないで指は入れないでお願い」
 と生温かい吐息を口腔に吐きかけてきた。
「ほんとに処女なのよ信じてないだろうけど本当なの、拝島にあげるからたぶんクリスマスにあげるから」
 竜介の目が細まる。女の頬を観察しながら、拇指の爪を下着の縁に掛ける。
「お願いお願いやめて嫌いになりたくないから、それにいま穢いし」
 むしろかれは拇指に力を込めて、生じた空間に人差指を差しいれた。指先が、ぬるりとした粘液に被われた肉と、それを縁どる乏しい陰毛を感じたと同時に、女はかれを樹に打ちつけるようにして身を離して、
「なんで聞いてくれないの」
 ふだんより小声なところが、本気の怒りであることを示している。竜介は樹皮から腰をあげた。
「悪い、思わず」
「好きじゃないの? ただで入れる風俗だと思ってんの」
「なんでそうなるんだって。だいいち残酷だろう。生殺しだよ」
「だからクリスマスって云ってるじゃない」
「何箇月先だよ。それまでにおれが死んだらどうする」
「あんた長生きするわよ。とにかく今日はおしまい。続きは続篇で」
 礼於奈は小径に戻っていった。竜介はまた左手をジーンズのポケットに入れ、硬直した若い男根の感触を無意味に確かめると、その後を追って歩きだした。右手の指の鼻に寄せてみた。かすかに小便のにおいがするような気がしたが、それ以上のはっきりとしたにおいはない。舐めてみた。糊のような舌触りだけで、これといった味はない。粘ついた、塩気のない汗のようなものとしかいいようがない。竜介が追いつくまえに、礼於奈はくるりとふり返り、
「じゃあね」
 と云って緑地を離れていった。
 かれは自らを宥めるように陽物を撫でた。ここは素直に引きさがっておくのが得策だろう。礼於奈の褐色の影が9号棟に吸いこまれていくのを眺めながら、ふたたびたばこに火をつける。腕時計を見た。午前零時を二分ほど廻っている。この帰宅時刻を、かの女は家族にどう言い訳するのだろう。処女? 父親だって信じないね。
 棟の、手近な狭間へと斜面を下った。視界の左端にちらりと動くものを見つけて、立ちどまってそちらを向いたが、だれもいない。まんまるに剪定された低い植込みが、コンクリートの壁を囲んでいるばかりだ。だれもいない。
 壁を見あげながら、サテライトの人口というのは今、どのくらいなんだろうかと考えた。このA区は十八階建てで、一フロアあたりたしか十世帯、で百八十世帯。最近は空室も増えているというが、それでも平均をとれば一世帯に三人くらいにはなるだろう。とすれば一棟に……五百四十人。それが十二棟ある。六千……まあ六千五百くらいか。サテライトAだけで六千五百人。B区はより高層だが、棟数も少ないから似たようなものだろう。C区の建物の高さはまちまちだ。下方の階が日照を確保できるぎりぎりまで積木を置けるだけ置いてみたような複雑な構造をとっている。あそこの住人は、もっと確実に多い。一戸建てのサテライトとなるとちょっと見当がつかないが、竜介が暮らしているD区や、E区あたりは集合住宅も同然だから、相当な人数が詰めこまれているはずだった。
 ともかく立派な小都市の人口だ。それが整頓上手な女の部屋のタオルみたいに、同じ形に折りたたまれて、最小限の空間にしまいこまれているわけだ。中央公園も勘定に入れれば、緋沼サテライトは、けっして小さな空間ではないが、仮に公園の敷地を各世帯に分配したら、きっと駐車場ぶんの面積にもなるまい。しかも公園は、サテライト居住者のためだけの施設ではない。
 十五年前、あたかも忽然とこの片田舎に現出した、コンクリートとエレクトロニクスとガーデニングの博覧会場。礼儀正しく棲息する、無数の、無名の人人。閑散とした夜の景色がふと異様に感じられ、竜介は急にいらいらと、我慢ならないような気分になった。どこかに爆弾でも仕掛けて、木の葉の下の蟲どもをいっせいに追いたててやりたい。息をひそめ、互いの動きを観察しあうしか能のないやつらを。
 見てるもんかと礼於奈に云ったのは、気休めだ。サテライトに暮していて、相互監視の網を逃れている者はいない。十余年のサテライト生活でつくづくと思い知ってきた。かれのほうが見る側に立つことも少なくない。監視への対抗策はひとつ、見られながら、周りの意識の盲点に身を置いていることだけだが、それが可能な生活態度を竜介は意図的に脱している。わる目立ちする風体にしろオートバイにしろ、地蟲の同族ではないというかれの自負心の顕れだった。気にするものか。見ているのはいつも無名のだれかだ。高い壁を見あげた。どこのだれとも知れぬだれかだ。
 棟の南側に出たかれは、愛車のまわりに小さな影が蠢いているのを見つけて、指先からたばこを落とした。
「……おい」
 駆けだす。単車にたかっているのは小学生くらいのこどもたちだった。いくつもの青ざめた、小さな顔がいっせいにこちらを向いた。
 四散していく。一瞬どの影かを追おうかと迷ったが、それよりもドラッグスターが心配だった。元から中古とはいえ、屈辱的なアルバイト生活で流した汗と涙の結晶だ。
 近づき、単車のありさまを目のあたりにして、げ、と呻いた。シートは切り裂かれ、タンクは擦傷だらけだ。スポークやエンジンまわりの部品には、固い棒でも突っこんだものか、奇妙な歪みが生じている。
「畜生」
 単車を悪戯されるのは、これが初めてではない。ここしばらくなにもなかったものだから油断した。それにしてもずいぶんと念入りじゃないか。悪質きわまりない。エンジンはかかるだろうか。プラグは……かれは地面に膝をついた。街灯のあかりだけでは細かいところが見えない。かれは舌打ちを重ねた。
「キジツダ」
 だれかが背後で云った。風の唸りのような、細いかすれ声で。
 キジツダ……きじつだ……期日だ。
 顔をあげた。が、ふり返れない。腰のあたりから、厳密にはきっと肛門から、ふるえが涌きあがって、かれの膝に、背に、肩に達した。後ろ頭から背中にかけてを、弾力に満ちた衝撃が襲った。脳天を風が吹きぬけ、銀色に輝くエアフィルター・カヴァーに顔面からぶつかった。寸前、竜介はカヴァーの上に、平たく歪んだ自分の顔と、その背後に小さく映りこんだ白い影を見ていた。
 帽子を被ったこども。
 トレチア。
 激突は刹那、快美の錯覚を生んだ。苦痛はあとから来た。
「おぶ」
 反動と同時にそう発したが、なにをいおうとしたものか、かれ自身にも判然としなかった。大勢によって後方から踏みつけられたとしか思えないのに、クロムの鍍金面越しに見えた人影はただひとつである。トレチア。
 頭を上げきる前に、二度めの衝撃が訪れた。打撲に打撲が重なることで痛みは濾過され、透明度を増した。もはや快美への錯覚はなく、より純粋に、痛い。
 攻撃は繰り返された。衝突、衝突、衝突、衝突、衝突……複雑な音を耳に聞いていた。外気伝いと思しい軽軽とした音より、頭蓋の振動が直接鼓膜に伝わった、重苦しい音色のほうがだいぶ勝っている。
 反動で顔が跳ねあがるたび、愛車の部品が血に汚れ、血に染まっていく。顔の何箇所が裂けているとも想像がつかない。衄血だけではない。六度めか七度めか八度めの衝突のあと、ふと間が空いた。反撃の機と感じた。部品の鏡面には、トレチアの歪んだ白い影。
「ぶお」
 糞、と叫んだつもりだった。腫れあがった唇とぐらつく前歯がそれを許さなかった。身軽さを自負している。左脚を残してふり返り、同時に背後の影に向かって水平に手刀を切った。空気の手応えだけがあった。視界が本来の半分に減じていることに、そのとき初めて気がついた。右眼が開かない。いや開いている。見えていないのだ。
 急な動作が顔面の血行を促進し、これまでで最も重い痛みが鼻面を撫であげた。んお、とかれは呻いて表情を歪めた。痛みが増した。涙ぐんだ。左眼を懸命に瞬いて、視界を掃除する。
 ……青白い小さな顔が六つ七つ、かれを遠巻きに囲んでいた。小学校の半ばから高学年くらいの、おとなしげな少年ばかりだ。どの顔にも、これといった特徴は見つからない。昼間の光の下で、いたのはどの子かと問われても、きっと他のこどもらと区別できまい。
 星のない夜空。サテライトたちの黒ずんだ巨影。方形をした無数の眼が、こどもたちの後ろから竜介を瞰おろしている。背後で、ドラッグスターを構成するなにかが、かすかに軋み、次いでべつのなにかが大きく、鋭く軋んだ。
 うなじに鈍重な空気の動きを感じた。ふり返った。
 オレンジ色の燃料タンクが膨張していた。いや接近だ。落下してくる。左脚が巻きこまれる。
 閃きのような予測は、一瞬ののち、
 現実になった。
 現実になった。転倒してきた愛車の重量が、竜介の左の膝とワークブーツに包まれた足首を、かれが生来経験したことのない角度に折った。折れた。同時に臑が砕けた。ぱん、という破裂の衝撃が、頭蓋に伝わってきた。
「え、わじ?」
 竜介はなにかに対して問うた、たぶん自分の左脚に。痛みが来た。ふしぎと最初、それはこめかみに生じた。鈍い鋤かなにかの先端を、こんと打ちつけられたような感覚だった。倍加、倍加しながら、肩に下り、背中を走って、腰骨に、そして潰れた臑へと達した。竜介は声をあげた。
 声をあげた。
 声をあげた。喚きながら、冷えた舗道に尻を落とした。するとまた別種の痛みが、脚と顔それぞれに生じた。鼻息が、視界の下方に血飛沫を舞わせた。痛みの群れに対し、顔を仰向け、固く両眼を閉じ、かれは通過を待とうとしたが、じきそれが非現実的な夢想に過ぎないと気づいてしまった。通過する痛みではないのだ。脚は潰れてしまったのだ。絶望感が、瞼の裏側を白く輝かせた。がん……がん……がん……激痛が一定のリズムを発しはじめた。聞える。
 聞える。現実音だ。
 竜介は目を開いた。夜空を背景に、半ズボン姿の少年が宙に浮かんでいた。
 落下した。また現れた。転倒し、竜介の脚を下敷にしたドラッグスターの上を、飛び跳ねているのだ、軽業師のように高高と、優美に。優美だった、竜介の目には。
 少年は跳躍しながら笑っていた。あかるい笑い声をあげていた。
 白布に被われた学帽、白い開襟シャツ。
 トレチアから来た少年。
 無垢の悪意。
 これから自分が突き落とされるであろう苦悶の深淵を竜介は眺めた。かつて脅かし、傷つけ、殺害した、いくつもの生命が思い返され、今宵不意に自分がそれらとの同列に置かれたことを知った。あの鳥たちや、猫や犬や……人間たち。かれは泣きだした。赤ん坊のような号泣になった。悔恨の嘆きからは程遠い、白痴的な泣き声だった。
 思考はとうに放棄していた。濡れて細まった視界の端に、横並びのふたつのあかりが現れ、近づいてきた。苦痛の波は退かない。しかし、いつしかリズムを失っている。

        ∴

 楳原崇が父の書斎からグラス半分くすねてきたマカランの十八年を片手に、コメットの液晶ディスプレイ上のテキストをスクロールさせていると、ドアの向こうで電話が鳴りはじめた。クリックボタンから指を離してフォントの雪崩を鎮めた。
 テキスト名は仮に「扉」としてある。崇を推理文壇に導く扉となるかもしれない、次期もしくはその次のメフィスト賞に応募するための大長篇小説の、冒頭部分だ。題名の候補はいくつか考えてある。応募段階で、時局を踏まえてもっとも有利なものに絞るつもりだった。
 ほんの冒頭部分とはいえ、四百字詰め原稿用紙に換算すればすでに四百枚を超えている。構想の隅隅まで描ききるためにいったい何千枚ぶんの文章が必要なのか、かれ自身にも見当がつかずにいる。だが遅くとも年内には、作業を貫徹する心づもりだ。筆の早さには自信がある。内容の充実が最優先なのはもちろんだが、早さが武器であることに変わりはない。強力な武器だ。書く速度が倍なら、デビューのチャンスも倍になる。単純に速度だけの比較でいえば、おれは昔の綾辻行人の三倍か四倍で飛ばせる。ここ最近のかれの二十倍だ。奥方の新作が莫迦売れしてることに甘えて、今はもっと遅筆になってることだろう。追いついてやる。待ってろ、綾辻。
 岩倉有希の顔が頭にうかんでいたが、はて、こんな時間に電話をしてきたことがあっただろうか。カライドスコープによって濃紺にカスタマイズされたメニューバーには、白抜きで「(木) 0:55」とある。思いたち、ポインタを合わせてクリックすると、表示は「(木) 1999.4.1」と変わった。ふふん、と崇は鼻を鳴らした。四月莫迦だ。十八にもなってべつに嬉しくもないが。
 階下のホールでも親機が鳴っているはずだった。両親も祖父も熟睡しているらしい。無視しておいて自動応答に切り替わるのを待つか、二階で崇が出るか、妹のあかねが出るかだ。
 まず有希からではあるまいと踏み、そのまま放っていたが、コールは十回以上に達しても途切れなかった。あかねも寝てるのか。母がまた、自動応答までの回数を「制限なし」に切り替えてしまったようだ。下手に家族に出られて友人からの伝言が曖昧になるよりは、自らの耳で録音を確認したいと思い、今の電話機になった当初から短めの回数に設定してきたのだが、最近とうとう母が操作マニュアルの引き方を覚えてしまった。
 吐息をつき、顔に被さっていた長い髪を掻きあげて、崇は椅子を立った。インターネットへの接続はケーブルテレビの回線を介して二十四時間自在である一方、電話に関しては保守的な家族のおかげで不自由を強いられている。
 ドアの外に出た。子機の充電器は、二階廊下を兼ねたサンルームの、北側の壁に螺子留めされている。ひたすら採光ばかり考えて設われた、南面が窓だらけなうえに巨大な天窓まである、約八畳ぶんのいびつな空間だ。
 屋内にいながらにして陽光漬けになれるというのは、むろん、ありがたいことに違いない。しかし夏期の日中は、ブラインドカーテンを備えているにもかかわらずひどく熱せられて、人はもちろん家財にとっても過酷な空間と化す。変形し、破損した家財は少なくない。鉢植えはすぐに土が乾いて、何度新しいのを置いても枯らしてしまう。今では家具の大半が持ちだされ、緑もなく、代わりに折畳み式の物干し台がふたつ置かれている。冬は冬で、この部屋があるおかげで家じゅう暖房が効きにくい。設計にあたった、父に云わせれば「一流の」建築士は、この空間にいかなる夢想を託していたのか。雨の日の快適な洗濯? それにしては水場がない。
 ドアが開いた音を聞きつけ、トトが階段を上がってきた。ん、と目を合わせてやる。満二歳になる雄のバーニーズマウンテンだ。黒、白、赤茶の三色で、左右対称に、鮮やかに分割された体毛を持つ。同種の他犬に比べて、尻が小さく、尾の根元も細まって見えるのは、そこいらの毛ばかり短いからだ。
 せんの夏、大型化した図体を家族が持てあまして櫛による蚤取りを怠り、かといって薬品も毛嫌いして、対策らしい対策を練らずにいたら、ふと顔を間近にすると眼や鼻の廻りにいくつもの黒い物が蠢いているというほどの、蚤の巣窟と化した。アレルギーが出て、地肌が赤く染まった。痒がって自分で、尻や尾の毛を咬みちぎるようになった。夏が終わるまでに、歯の届く範囲がバリカンをかけたようになった。
 家のなかでかれは、一階のホールとこのサンルーム以外、基本的に出入りを許されていない。あとは浴室で、外出後や粗相のあと脚や陰部を、それから月に一二度、美容のために全身を、崇やその父の手で洗われるのみ。だからドアの音には敏感だ。それまでどこでなにをしていても、開いたドアの前に飛んでくる。かれのホール、かれのサンルームへの、友人たちの来訪を歓迎するため。
 父の旧友の家から譲られてきた頃の、十五倍にも達した体重を顧みず、当時そのままの勢いで飛びついてくるトトを巧みにさばきつつ、崇はLEDの緑の点滅に手を伸ばした。
 音が途切れた。
「なんだよもう」
 急に、トトが離れていった。対いのドアが明るく開き、白いパジャマ姿のあかねが出てきた。
「なんだ」
「なんだってなんだ」
「電話と思って」
「出ようとしたら切れた。起きてたのか」
「ヘッドフォン掛けてたの」
 伸びすぎたおかっぱ頭が左右に傾ぐと、こ、ここ、と骨の音がした。音楽を聴きながらもちゃんと勉強していたのだろう。
 再来週、十二歳になる。六年生だ。かつて崇がそうしたように、青山学院の中等部を受験するつもりでいる。
「おにいちゃん、カーネーションの新しいの買ったの」
「ん、買った」
「聴いた?」
「一回」
「どうだった」
「まだよくわかんないな。いい感じの曲はあった」
「MDに録っといてくれる」
「明日じゅうでいいか」
 白い顔が小さく上下する。
「わかった」
「あと、セヴンスクロス返した?」
「いやまだ。ドリキャスんなか入ってる」
「どこまでやった?」
「いま鳥類エリア」
 崇の傍らで、ふたたび電話が鳴りはじめた。
「おにいちゃん、携帯まだ買わないの」
 一段大きくなったあかねの声がそれに被さる。崇は子機を取って、
「まだ。だっておとうさんがさ。はい、楳原です」
「……楳原ぁ、おえ……」
 眠たげな、よく呂律の廻っていない喋りだが、声で拝島竜介だとわかった。携帯電話からだ。電波の状態はあまり良くない。近くでサイレンが鳴っている。かまわれないことに落胆したようすで、うずくまり、前肢に顎を乗せていたトトが、微かな音を聴きつけていつしか頭を高く上げている。サイレンはかれの同族の遠吠えによく似ている。
「おう。なんだ、酔ってるだろ、竜」
「……急車ぃ乗っへんら」
「なにに」
「救……」
「おまえが乗ってるの? 救急車から携帯かけてんのか」
「…………」
 ノイズが続いている。崇はあかねに向かって、
「拝島だ」
「ドラッグスター?」
 うなずく崇。
 あかねは自室に戻ろうとはせず、窓のひとつに近づいてブラインドの角度を動かし、外を眺めはじめた。携帯電話の話には続きがあるらしい。
「……て運ばえへんらよ」
「あ、聞えた。今は聞える。事故ったのか」
「ちゃあう。やらえた」
「なにを。だれに」
「トレ……」
「聞えない。聞えにくいんだ」
「……レチア」
 一瞬、顔から血の気が失せたことを崇は自覚し、幼稚な呪文に中てられた素朴さを恥じた。しゅ、とかれは息を吐き、
「なに莫迦云ってる」
「期日らって」
「莫迦野郎」
「おえ、左脚が滅茶……てて……」
 またノイズばかりになった。
 トレチアときた。どう笑う? やられたと云う。不明瞭な発音は、破損し腫れあがった顔面を想像させたが、また泥酔した友人の口調そのものにも感じられる。どっちだ竜。この莫迦。
 ……莫迦も莫迦、四月莫迦だ。思いきるように、慣れない舌打ちをした。一瞬にせよ引っかかってしまった。サイレンはどう調達した? 交差点の救急車か。
「早すぎだよ。明日の晩かけてこい」
 独りごちながら電話を充電器に戻した。
「酔っぱらいだ」
 窓の前からふり返ったあかねに云うと、かの女は口許だけで笑って、
「おにいちゃんも。ウィスキーのにおい」
「おとうさんには云うな」
「ね、外にこどもがいるの」
「中坊だろ、拝島みたいな金髪の。よく夜中にほっつき歩いてるよ。G区の住人じゃないよな。下着でも盗みにきてんのか」
「もっと小さいこども。半袖着て、白い学帽被ってる」
 外を眺めているうち夜に感情を吸いとられてしまったかのように、あかねは澹澹と云った。心臓を、鷲づかみにされたような気がした。
 すぐに平静を取りもどした。きっとまた流行っているのだ。テレビで人面魚が流行れば、どの小学校の池にもそれが現れる。だれも嘘をついている気はない。普通の魚がそう見えてしまうだけだ。話を合わせることにした。窓に近寄り、
「どこだ」
「道路。庭の柿の木の……もういない。こっち見てたけど」
「ほんとか。どんな、何歳くらいの」
 吊りあがり気味の大きな眼が、崇を見返す。
「小学生と思う。たまに見かける。それより携帯、いつ買うの」
 担ごうとしているのだろうか。それとも、そうもトレチアを信じきっているのか。
 六年生にしては、もともと言葉が幼い。突飛で、途切れ途切れで、脈絡がない。頭が悪いわけではないのだ。受験は教師から勧められたというし、一緒にテレビを見ていると、ぎょっとするような鋭い批評を吐いたりもする。夢想癖があるのだというふうに思えば、いずれも才能の片鱗には違いない。そのうち自分とは正反対の小説でも書きはじめるかもしれない、などと思う。ともかく実の妹でありながら、真意をつかむのに苦心する。
「携帯買ってよ。子機、部屋に置きたい」
「だれと話す」
「違うの、友達からかかってこないから。おにいちゃんがめんどくさそうに取り次ぐから、みんな遠慮してる」
「子機増やせばいいって云うかもな、おとうさんは」
「おにいちゃんが出たら同じなの。おとなの男の人が出たら」
 おとな、という言葉に胸を突かれた思いがし、崇は視線を揺らした。
「電話代、おにいちゃんが払うつもりでしょう。だったらいいのにねぇ」
「嫌うんだよ、あの世代は。でも、なんとか相談してみよう」
 自分は靴下とスリッパを履いているのに、あかねは裸足であることに、かれは気づいた。

    二

† 以降は、書籍にてお娯しみください。

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